
スポーツカーに情熱を燃やすビジネスマンと、1970年代にマクラーレンF1で活躍したエンジニアが組み合わさると、その結果は爆発的なものになる。コンピューター・ブームで成功を収めた起業家ポール・ハルステッドが、マクラーレンで勝利を収めた時代にジェームス・ハントと仕事をしたことのあるエンジニア、バリー・ロックと出会った80年代初頭のオーストラリアがまさにそうだった。
ITに背を向けていたハルステッドに本拠を置くエンジニアリング会社は、アルファロメオのディーラーを所有し、デ・トマソのパンテーラをオーストラリアに輸入するなど、すでに自動車ビジネスに十分な足跡を残していた。また、クリーブランドのエンジンをイタリアに輸出していた。レーシング・エンジニアのバリー・ロックは、GTシリーズで一世を風靡したレースカー、パンテーラの設計ですでにハルステッドと仕事をしていたが、あるとき、国産のスーパーカーを作るというアイデアが浮かんだ。
死産となったアウトデルタ・プロジェクトからのインスピレーション
時間とコストのかかるゼロからのスタートではなく、2人は既存のプラットフォーム、つまりアルファロメオ・アルファスード・スプリントをベースにデザインすることを選択した。1976年に登場したジウジアーロのファストバック・クーペは、1982年にグループB参戦の可能性を視野に入れたスプリント6Cのプロトタイプ研究がオートルダータによって行われていた。しかし、ロックはこのプロジェクトに触発された。アルファV6とアルファスプリントボディをベースに、ZF製5速トランスアクスルを採用。

バリー・ロックはスプリントを再設計し、堅牢かつ軽量な新しいリア・サブフレームを装着した。シャシーとボディには、カーボンファイバーとケブラーという、当時はまだほとんど使われていなかった素材が多用された。車体後部は巨大なスポイラーで覆われ、側面にはテスタロッサを彷彿とさせる爪型のエアインテークが装備された。

アルファロメオ・オーストラリアが不発
問題は、アルファロメオのオーストラリア支社がこの種の改造にあまり乗り気ではなく、二人の行く手を阻み、アルファV6の輸入を非常に高価なものにしてしまったことだ。
「むき出しの車体やエンジンは買えなかったので、新車のアルファロメオを買って解体する必要がありました」とロックは説明する。車種はニュージーランドから。スプリントはオーストラリアの設計基準(ADR)に適合していた。

最初の3台がブッソを搭載した後、ジョカトロはより安価で、最終的にはよりパワフルなホールデン製5リッター・フューエルインジェクションV8を選択した。ホールデンのHSVエンジン部門のエンジンは、オーストラリア・ツーリング選手権でホールデンエンジンを担当するスペシャリスト、TWR(トム・ウォーキンショー・レーシング)によって準備された。ロックのチームは、鋳鉄製エンジンを動かすためにカスタムプレナムとツインスロットルボディも追加した。フロントサスペンションは、マウントポイントを変更した以外はオリジナルのまま。対照的に、特注の独立リア・サスペンションは、ZF製トランスアクスル・ハウジングにアルミニウム製クレードルでマウントされたロワー・ウィッシュボーンが特徴である。

厳しい経済情勢の犠牲者
1988年、ついに日の目を見た。ディープブルーのカラーリング、レザーインテリア、レカロシートを備えた300bhpのミッドシップエンジン、2シータースーパーカーである。エアコンや最高級オーディオシステムなど、ちょっとした贅沢が施されていたにもかかわらず、車重はわずか1,085kg。最高速度は260km/h、0-100km/hタイムは5秒と謳われた。レイクサイドでラップレコードを更新した元F1ワールドチャンピオンのアラン・ジョーンズを招いてのプレスデーで、ジョカトロは発表された。警察がこの選択肢を検討していることを示す宣伝のために、ジョカッティーロには点滅するライトとクイーンズランド警察のステッカーが貼られた。イタリアにルーツを持つインターセプターの一種だったのだろう。


生産されたジョカトロはわずか15台。プロジェクトはホールデンの支援を受けて順調なスタートを切ったが、ケブラーの使用やドイツ製ZFギアボックスへの法外な輸入税のために生産コストが高騰。1980年代に急騰したスーパーカー市場に大きな打撃を与えた株式市場の暴落の中、小規模生産計画に対する政府からの資金援助は1989年に打ち切られた。ハルステッドはオーストラリアのスーパーカーのビジョンを断念せざるを得なかった。現存するのは14台で、その多くは非常に良好なコンディションだが、1台は競技中に死亡事故に巻き込まれた。